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東京高等裁判所 昭和33年(ネ)1353号 判決

控訴人 学校法人日本厚生学園

被控訴人 国

代理人 横山茂晴 外二名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴人訴訟代理人は、原判決を取消す、被控訴人の請求を棄却する、被控訴人は控訴人に対し金千一万三千九百四十三円及びこれに対する昭和三十年四月二日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払うべし、訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴人訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述並びに証拠の提出援用及び認否は、控訴人訴訟代理人において、原判決事実摘示中本訴の答弁の(一)及び(三)の全部並びに反訴請求原因の(一)及び(四)の各一部を次のとおり訂正し、証拠として、被控訴人訴訟代理人において、当審証人片山五郎、同山内良種、同岡田[禾象]、同吉橋鐸美の各証言を援用し、当審において新たに提出された乙第二十三号証の成立を認め、控訴人訴訟代理人において、原審で提出した乙第二十三号証を撤回し当審において新たに乙第二十三号証を提出し、当審証人富山保、同清水英二、同片山五郎、同吉橋鐸美の各証言を援用したほかは、いずれも原判決事実摘示の記載と同一であるから、これをここに引用する。

控訴人訴訟代理人による陳述の訂正。

一、本訴の答弁中(一)及び(三)を次のとおり改める。

控訴人が昭和二十六年三月十四日現名称に変更する以前は財団法人日本女子歯科医学専門学校と称していたこと、控訴人が昭和二十二年四月中被控訴人より元名古屋陸軍幼年学校跡の建物十六棟及びその敷地を賃借し、後に右建物の一部をその敷地とともに被控訴人に返還したこと及び賃借期間が被控訴人主張のとおりに定められかつその主張のとおり更新を重ねたことは認めるが、右賃借の日は同年四月三十日、賃借建物の坪数は二千百四十二坪、賃借物件の一部を返還した日は昭和二十五年四月十五日、右返還後の残存賃借物件は建物五棟延坪四百九十八坪三合その敷地九百九十六坪である。被控訴人主張の各賃料額調定の事実は不知、賃料額は争う、賃料は昭和二十三年十一月当時は一箇月に付建物は五千五百八十六円九十八銭土地は千八百四十二円八銭、昭和二十五年四月一日以降は一箇月に付建物は千二百四十三円四十四銭、土地は三百九十八円三十九銭の定であつた。

二、反訴請求の原因(一)中控訴人が昭和二十五年四月十五日返還した賃借建物は十一棟千六百四十三坪二合で残つた建物は四百九十八坪三合である。西山工廠跡の土地建物につき控訴人と被控訴人との間に賃貸借の予約があつたことは反訴請求原因としては仮定的にも主張しない。同(四)中反訴状送達の日の翌日は昭和三十年四月二日が正当である。

理由

控訴人が昭和二十六年三月十四日以前は財団法人日本女子歯科医学専門学校と称していたこと、控訴人が昭和二十二年四月中被控訴人より元名古屋陸軍幼年学校跡の建物十六棟及びその敷地を賃借期間は同年四月一日から同年九月三十日まで六箇月間の定めで賃借し賃借期間の終了毎に同一期間を以て契約を更新して来たこと及びその間昭和二十五年中賃借物件の一部を被控訴人に返還したことは、いずれも当事者間に争がない。

成立に争のない甲第二、三号証、同第十一号証の一、二、同第十二号証ないし第十四号証、乙第一号証、同第二十三号証、原本の存在及び成立に争のない同第四号証、原審証人野崎喜代一の証言及び原審における控訴人代表者清水精一尋問の結果を総合すれば、右不動産に関する名古屋財務局長の一時使用認可の日附は昭和二十二年四月三十日となつており、実際は更に決裁が遅れて認可書は翌五月七日に発送され、その頃控訴人に到達して賃貸借契約が成立したものではあるけれども、契約に基く使用開始の日は遡つて同年四月一日からとなつていること、賃貸物件は国有財産法による普通財産(旧国有財産法による雑種財産)であり、土地は四万六千五十二坪、建物は延坪二千三百十八坪であつたこと(乙第一号証、甲第二、三号証には建坪を控訴人主張のように二千百四十二坪と表示してあるけれども、原審証人山内良種の証言によれば、契約締結当時は終戦後日浅く坪数も正確に把握できなかつた時期であることが認められ、翌年控訴人が愛知県知事に提出した書面(成立に争のない乙第二号証の一)にはこれを二千三百二坪二合八勺と記載してあつて控訴人の主張とも一致せず、結局使用料調定のため実際に物件精査の上作成された文書と認める前示甲第十一号証の一、二、第十二、第十三号証の記載に従い右建物の坪数は前示のとおりと認むべきである。)、昭和二十五年中控訴人が右物件の一部を返還した時期は同年四月十五日であり、返還後の残存物件の坪数は土地九百九十六坪、建物四百九十八坪となつたこと、賃料については名古屋財務局長が「使用料は追つて指示する」旨定められており、右の定めに基いて昭和二十三年十一月三十日までの分は控訴人主張のとおりの額(一箇月七千四百二十九円六銭に当る)が指示されて控訴人においてもその都度異議なくこれを支払つていたこと、昭和二十三年十二月一日以降の賃料については被控訴人はそれぞれその主張のとおりの額(原判決末尾の別表記載のとおりの額)すなわち昭和二十三年十二月一日より昭和二十四年九月三十日までの分は一箇月二万八千三百十円五十銭、同年十月一日より昭和二十五年三月三十一日までの分は一箇月二万八千五百七十九円十四銭、なお控訴人が物件の大部分を返還した同年四月から(計算上は四月一日から)昭和二十六年三月三十一日までは弁償金名義の下に残存物件に対する従前の賃料額と同じ率による一箇月二千二円六十銭の各割合による金額を被控訴人主張の各調定年月日の頃に控訴人に指示してその支払を求めたことを認めることができる。

なお、右賃貸借契約において「使用料は追つて指示する」と定め、具体的な一定の金額を定めなかつたのは、右契約当初においては賃貸物件の坪数、建物の経過年数等が不明のため賃料額を算出することができなかつたからではあるが、それは賃料額の決定を双方の後日の協議に譲つた趣旨ではなく、政府において調査の上相当な賃料額を算出指示し、かつその指示した賃料額が将来不相当となるに至れば更にその改訂額を指示すべく、控訴人はこれらの指示された額を賃料として支払うという趣旨のものであつたことは、原判決理由中に説示されたとおりであるから、その記載(記録七五五丁表六行目から七五六丁表三行目まで)をここに引用する。このように賃料額の決定及び改訂を賃貸人の定めるところに予じめ一任することは私人間の通常の賃貸借契約においてはその例を見ることが少ないけれども、本件は国有財産たる旧軍用施設の賃貸の場合であり、成立に争のない甲第四号証ないし第九号証及び原審証人野崎喜代一、同稗方弘毅の各証言を総合すれば、この種の国有財産の賃貸料は地代家賃統制令に基く統制賃料額の定め方に準拠してこれより学校に有利になるように全国的に一定の基準を定め、これに従つて算出指示されるものであつて、その定め方は公平であり、その額は一般私人間の不動産賃貸借契約において定められる賃料額に比して決して多額のものではないということが関係者の間に周知されており、本件においても賃料額が右のようにして定められることを前提として、前記のような、その決定及び改訂を政府に一任する趣旨の約定がなされたものと認められるから、かような約定は公の秩序善良の風俗にも反せず、賃借人に不当な不利益を強いるものでもないので有効であり、これにより政府の指示した賃料額は、それが一般取引上相当とされる賃料額を超過しない限り、右契約に基く賃料額として当事者を拘束するものであるところ、本件においても前記各甲号証及び原審証人野崎喜代一の証言によれば、被控訴人の指示した前記各賃料額は前記のとおり政府が定めた一般基準に従つて算出せられた相当賃料額であることが推認せられ、それが取引上相当とされる賃料額を超過するものであることを認めて右認定を覆すことのできる資料はないから、右賃料額は本件賃貸借契約に基くものとして控訴人を拘束するものといわなければならない(本件未払賃料発生以後に施行された昭和二十七年法律第二一九号国有財産特別措置法には第三条第一項第四号により学校法人に対しては旧軍関係財産等を時価からその五割以内を減額した対価で貸付けることができるように定められているが同法には遡及効は定められていない。)。

控訴人は右賃料は免除を受けた旨抗弁するけれども、その理由がないことは原判決理由中に説示するとおりであるから、その記載(記録七五七丁裏九行目から七五八丁表六行目まで)をここに引用する。

次に控訴人の時効の抗弁について判断する。本件賃料債務の内昭和二十三年十二月一日から昭和二十四年三月三十一日までの分の履行期が昭和二十四年六月二十四日であることは被控訴人の自認するところであり、この賃料債務については五年の消滅時効を定めた民法第百六十九条の適用があるものと解すべきところ、成立に争のない甲第十号証、同第十五号証、原審及び当審証人岡田[禾象]、同山内良種、同片山五郎、同吉橋鐸美の各証言並びに原審における控訴人代表者清水精一尋問の結果を総合すれば、控訴人が右幼年学校跡を被控訴人に返還するにつき、被控訴人の機関である国家地方警察愛知県本部から昭和二十六年九月二十八日控訴人に対し補償金百万円を支払うことになつたが、当時右物件を管理していた被控訴人の機関たる東海財務局においては、同日局長吉橋鐸美、管理課長山内良種等が控訴人に対し、右支払金の中から昭和二十三年十二月一日以降昭和二十六年三月三十一日までの未払賃料を支払うべきことを要求したところ、控訴人の代表者清水精一は、これ等の賃料額がその以前の賃料の額より著しく増額されていることに異議を述べ、かつ当時日本私学団体総連合会旧軍施設対策委員会において広く私立学校の施設として使用されている旧軍用財産の使用料につき大蔵省と減額方折衝中であり、同委員会の指示に従い統一行動をとる必要があることをも指摘して、その成果が判明するまでは賃料を納付し難い旨を答え、激論となつたが、結局控訴人において一旦右、補償金百万円の支払を受けた上、内金五十万円を従前から控訴人と東海財務局との間に斡旋を試みていた愛知県総務部庶務課学事係長片山五郎に未払賃料支払のため(但しその額は争のあるまま)保管させることに協定した上、東海財務局管理課の事務官岡田[禾象]が同行して国家地方警察愛知県本部に赴き、そこで控訴人が金百万円を受領して右協定どおり内金五十万円を右片山五郎に預託したものであることを認めることができる。原審及び当審証人岡田[禾象]の証言中には、控訴人の代表者清水精一は右折衝の際賃料額に異議を述べたことはなく、単に私学連盟の大蔵省に対する運動が解決するまで賃料の支払の猶予を求めたに過ぎず、当時片山五郎から控訴人に交付された保管証(甲第十号証)の原案に保管の趣旨として「使用料未納金支払のために」とあつたのを「使用料未納金支払に充当する意味を以て」と岡田[禾象]において訂正したが、それも控訴人をして時効中断のために債務を承認させたことを明らかにした趣旨である、但し清水精一にはその趣旨は説明しなかつた旨の供述部分があるけれども、同証人の原審における証言によれば、同人は東海財務局における控訴人と同局との間の前記折衝には直接関与していなかつたというのであるから同証人の前示供述部分は原審における控訴人代表者清水精一尋問の結果とも対照し到底採用し難く、右認定事実と、さきに説示したように本件未払賃料の月額がそれまで控訴人の支払つていた賃料月額の約四倍に達する高額であることとによつて見れば、控訴人の代表者清水精一は右昭和二十六年九月二十八日の折衝において本件未払賃料債務の内従前の賃料額より増額された部分についてはその支払の義務を争つていたものと見るべきであつて、右増額部分についても債務を承認して支払の猶予を求めていたものであるとは到底認めることができない。又片山五郎より控訴人宛に作成された右甲第十号証保管証には「使用料未納金支払に充当する意味を以て保管云々」の記載があるけれども、その記載を以て被控訴人主張の債務承認の事実を推断することもできない。その他右増額部分については被控訴人主張の債務承認の事実を認めることのできる証拠がない。

もつとも、この場合においても、右清水精一においては従前異議なく支払つていた賃料額についてまで争う意思があつたとは認められないから、控訴人は右未払賃料債務を増額前の金額の限度で承認したものということはできる。そしてこの未払賃料債務は一個の賃貸借契約から生じた一箇の債務であつて、その内従前の額と増額部分とが別箇の債務をなすものではないから、いやしくも従前の額の限度で債務を承認した以上、たとえ増額部分を争つても、当然増額部分を含めた全部の債務につき不可分的に承認があつたことになるということが考えられるかも知れない。しかしながら本件賃料債務は数額的に可分であるから、その可分な一部のみに対する債務の承認は当然不可分的に全部に及ぶとはいえない。かような場合にもしその可分の一部につき債務を承認し他の部分の承認不承認に言及しなかつた場合には、当事者の意思解釈の問題となり、当該一箇の債務(の全部)そのものを承認する趣旨と解することもできよう。しかしながら本件のように、新たに増額された部分については増額に異議を述べ、明確に承認を拒否した場合には、これを承認しない意思は客観的に明白であるから、その部分につき時効中断の事由たる債務承認があつたものということはできない。のみならず時効中断の事由として承認を挙げてあるのは、たとえ権利者において権利行使のための積極的手段に出でず権利の上に眠つている場合でも、義務者自らその債務の承認をしている以上債務者がその債務を争わないという事実を重視して時効中断の効果を生じさせる趣旨であつて、単に債務が関係者の行為によつて取り上げられ睡眠状態から脱却したということだけを理由とするものではないから、債務者が債務を承認したということに特別の意味があり、従つて金額的に可分な金銭債務につきその一部に明確な異議を述べ承認を拒んでいるときには、たとえ一箇の債務であつても、債務の内の一部金額を承認しているということを理由に債務の全部につき承認があつたものと擬制し、全部につき時効中断の効果を生じさせるということは制度の趣旨に合致しないともいえる。従つて被控訴人主張の債務承認による時効中断の主張は、従前の賃料額相当の金額の限度内では理由があるけれども、これを超える部分については採用することができない。

被控訴人は、時効中断の他の事由として、昭和二十九年六月十五日催告をなし、その五箇月後に本訴を提起したことを主張する。原審証人鬼頭秀宏の証言によれば、東海財務局徴収課第三係長として国有財産の使用料徴収関係の職務を担当していた訴外鬼頭秀宏は、所属課長が更迭した直後である昭和二十九年六月十五日、控訴人代表者清水精一より前記保管金五十万円を片山五郎から取戻すにつき東海財務局としての同意を求められたけれども、右保管金は未納使用料支払のための預託金であることを述べ、右未納使用料の支払を受けるまでは申出に応じ難い旨を答えて拒否したことが認められ、右鬼頭秀宏の応答はすなわち控訴人に対する未納賃料の催告の趣旨をも包含するものと解することができる。なお右証言中その日時が昭和二十九年六月十五日であるという点も、同証人に対する尋問の行われた日であること記録上明白な昭和三十年十一月十七日より約一年半以前の出来事ではあるけれども、同人の所属課長更迭の直後であるという点に鑑み、信用するに足りる。右認定に反する原審における控訴人代表者清水精一の供述部分は採用し難い。そして右催告後六箇月を経過していない昭和二十九年十一月十五日本件訴が提起されたことは記録上明白であるから、本件未払賃料債務については、同年六月十五日の右催告を以て消滅時効は中断せられいまだ完成しないことになる。よつて控訴人の時効に関する抗弁は採用できない。

次に控訴人の相殺の抗弁及び反訴請求についても、当裁判所はこれらの点に関する控訴人の主張を理由がないものと判断する。その理由は以下各項に附加するほかは、この点に関する原判決理由中の説示と同一であるから、その記載(記録七五八丁表七行目ないし七六一丁表二行目)をここに引用する。

(一)  本件において控訴人は名古屋幼年学校跡の土地四万六千余坪建物十六棟を賃借して学校経営をしていたものであり、かように広大な土地建物はたやすく他に求め得られるものではないから、それを政府の都合により警察学校の用に供しようとして明渡を受けるためには、その前に移転先たる本件西山工廠跡の土地建物を控訴人に賃貸することが必要であつたかのように一見いえそうであるが、後記のように、本件では幼年学校跡の土地建物に対する控訴人の賃借権は当時それほど確実なものではなかつたのであり、政府としては控訴人に代替物件を賃貸してその承諾を受けるのでなければ幼年学校跡の土地建物の返還を受けることが全く不可能であつたともいえなかつたのであつて、当初政府が西山工廠跡の土地建物を控訴人に賃貸することを考慮しようとしたのは好意的なものであり、控訴人の申請をまたず政府自ら控訴人に口頭契約を以て右物件につき賃借権を設定しなければならないような特殊の事情は見られなかつたものである。すなわち、前示甲第二、三号証、乙第一号証、同第二十三号証、成立に争のない甲第一号証、原審証人片山五郎、同清水英二、同加藤信幸、同掘武、同二之宮千代、同宮坂勝太、同吉橋鐸美、原審及び当審証人山内良種の各証言並びに原審における控訴人代表者清水精一尋問の結果(前出及び後記採用しない部分を除く)を総合すれば、控訴人は、戦後の学制改革に伴い、東京都に在つたその女子歯科医学専門学校の施設を移転拡張して歯科大学に昇格させるため、前記幼年学校跡の土地建物につき一時使用の認可を受けたものであり、その使用目的は歯科大学の開設に在つたところ(乙第一号証一時使用認可書には「使用目的、戦災復旧」と記載してあるけれども、控訴人の学校は戦災に罹つたものではなく、使用目的が歯科大学の開設に在つたことは甲第一号証控訴人の使用許可申請書の記載によつて明らかである。)、控訴人は当初の六箇月の使用期間中にその使用目的に従う使用の開始をしなかつたことはもちろん、東京校在学生が昭和二十五年三月卒業するまで、又は昭和二十六年四月国家試験を受験するまでは幼年学校跡に歯科大学を開設することは事実上不可能であり、しかもその間大学開設の準備として名古屋市内に大学附属病院の敷地を物色したが遂に取得することができないでこれを断念するに至り、東京校の施設を幼年学校跡に移転するには金四千万円ないし七千万円程度の費用を要するにかかわらずその資金調達の具体的方策を講じた跡も認められず、幼年学校跡に農業関係の中部短期大学及び東春高等学校を開設したが、これは歯科大学の開設という本来の使用目的には副わないものであり、かつその開設につき文部省又は愛知県知事の認可は受けたけれども、土地建物管理者である名古屋財務局の承認は得ていなかつたのみならず(もつとも財務局においてはこの点を直ちに使用目的違反としてそれだけを理由として使用認可を取消そうとする態度には出ていない。)、右中部短期大学及び東春高等学校も学生生徒の数が数名ないし十数名の程度に過ぎず、僅かに四、五棟の建物だけを教室、事務室、物置等に使用している程度で、土地建物の利用度は極めて悪かつたことが認められる。このように控訴人が幼年学校跡の土地建物を農業校たる中部短期大学及び東春高等学校のために使用することは、使用認可の条件である歯科大学開設のための使用とは全く異なるものであり、又その現実の使用状況も、このような広大な土地建物を学校施設とする場合の本来の利用方法から見れば著しく効率の劣るものであつたのみならず、近い将来においても本来の使用方法であるこの地に歯科大学を開設する可能性は頗る薄弱であつたところ、前示乙第一号証によれば、右物件の使用認可に附せられた条件すなわち賃貸借契約の附帯条項によれば、使用者が一箇月内に所定の使用をしない場合又は使用の目的に従つた使用をしない場合には、財務局長は何時でも使用認可の取消すなわち賃貸借契約の解除をなすことができることに定められていたことが認められるから、東海財務局はこの特約に従い控訴人との賃貸借契約を解除することもできたのであり、前示乙第二十三号証によれば、現に東海財務局では昭和二十五年三月三十一日附を以て控訴人に対する右幼年学校跡の土地建物に対する使用認可を取消す旨控訴人に通知してあつたことが認められる(もつとも本訴ではこの通知により賃貸借契約が解除されたことは被控訴人においても主張せず、右通知以後も賃貸借契約が継続していたことは当事者間に争がない。)。前掲各証拠によれば、たまたま昭和二十四年秋頃から政府においてはこの方面に警察学校を開設する必要を生じたが、幾つかの候補地の内では本件幼年学校跡地が最も利用度が低かつたので、控訴人との間の賃貸借契約における六箇月の使用期間が昭和二十五年三月末日で満了すること(但し本訴ではこの使用期間満了による賃貸借の終了も当事者から主張されていない。)をも考慮し、控訴人との間の賃貸借の終了後は同所に警察学校を置くことを予定し控訴人にその返還を申入れたものであることが認められるけれども、控訴人が東海財務局と右幼年学校跡の物件の返還を協定した昭和二十五年四月十五日当時においては、控訴人は代替物件として西山工廠跡の土地建物の賃貸を受けるのでなければ引続き賃借権を主張して右幼年学校跡の返還を拒否し飽くまで同所で学校経営を続けることができるといえる程の強固な法律上の立場に立つていたものではないことが明らかである。

(二)  控訴人が幼年学校跡の土地建物の大部分を返還した昭和二十五年四月十五日当時にあつては、移転先としての西山工廠跡の土地建物の使用について東海財務局の態度は極めて控訴人に好意的であつて、もし控訴人においてその申出をなしさえすればこれを賃借できることは殆んど確実であつたということができる。すなわち前掲乙第四号証、同第二十三号証、原審及び当審証人清水英二の証言により控訴人が西山工廠跡入口に掲げた告示板を撮影した写真と認める乙第十三号証、原審証人栗林四郎、同岡田[禾象](前示採用しない部分を除く。)、同島田民治、同加藤信幸、同波多野桂、原審及び当審証人吉橋鐸美、同山内良種、同清水英二の各証言並びに原審における控訴人代表者清水精一尋問の結果(前示及び後記採用しない部分を除く。)を総合すれば、前記のとおり幼年学校跡の土地建物について控訴人は歯科大学の開設という使用目的を達成できる見込が薄弱であり、被控訴人より賃貸借を解除されても仕方のないような状況になつていたとはいえ、兎に角不十分ながら短期大学及び高等学校には少数ではあるが職員、学生、生徒があるので、たやすくこれらの学校を廃止することのできないことは当然であり、しかも政府の都合もあつて返還を受けようとするのであるから、東海財務局は右物件の返還より生ずる控訴人の損失を能う限り軽減しようと配慮していたこと、そのため東海財務局では控訴人に対し移転先として西山工廠跡の土地建物を使用することを勧告し、控訴人の申出があればその貸付を考慮する用意があることを積極的に言明していたのであつて、かような代替物件を提供することは同時に幼年学校跡の返還を促進することにもなるのであるから、当時もし西山工廠跡の土地建物につき控訴人より賃借の申出があれば、その申出の条件が許容できるものである限り、東海財務局としては当時はこれを承諾して控訴人にこれを賃貸する方針であり、そのことは控訴人側にも言明されていたこと、従つて当時控訴人においては西山工廠跡の土地建物を賃借できることを確信しており、当時もし控訴人がかような賃貸借契約を締結しようとしさえするならば、それを妨げるような事情はなかつたことを認めることができる。さきに引用した原判決理由中「原告としては被告から正規の手続を践んで西山工廠跡借受の申込があれば、これを拒むことができない関係にあつたものというべきである」と説示してある部分を引用したのもこの事実上の状態を示す趣旨においてである。前掲各証拠によれば、昭和二十五年四月十五日附で控訴人から東海財務局に差入れられた引渡証にも移転先として西山分工場の準備ができるまで一部建物の返還の猶予を求める旨記載してあり、控訴人においては当時中部短期大学及び東春高等学校の父兄に対しても西山工廠跡に移転の計画を告げて諒解を得、西山工廠跡の入口に同所を控訴人において管理し中部短期大学及び東春高等学校をこれに移転すべき旨の告示板を樹て、東海財務局の承諾を得て西山工廠跡に出入しその門衛所の修理や土地の除草、井戸の掘さく等具体的な準備行為を進め、西山工廠跡に移転できることを既定の事実として行動していたものであり、これに対して東海財務局においてもなんら異議を述べていなかつたことを認めることができる。しかしながら、このように当時控訴人が賃借の申込をなしさえすれば東海財務局はこれを承諾すべきことが疑を容れなかつたということから直ちに東海財務局との間に口頭による賃貸借契約が成立していたと結論することはできない。

(三)  本件の場合、西山工廠跡の土地建物につき口頭により賃貸借契約が締結されたことはこれを認めることができない。民法上賃貸借契約は諾成契約であるから、口頭のみによる賃貸借ももとより可能である。しかしながら成立に争のない乙第五号証の二及び原審における控訴人代表者清水精一本人尋問の結果によれば、西山工廠跡の物件は土地約七万坪建物四十七棟であつたことが認められ、本件はかような広大な物件の賃貸借に関するものであつて、契約の一方の当事者は膨大な組織体たる政府でありその財産を賃貸する場合にも公益目的に従うべき制約を受けるのであるから、比較的軽微な個々の物件につき私人間で賃貸借契約を締結する場合とは趣を異にし、その成立及び方式についてはおのずから異なる原理が支配することになる。すなわち、かような広大な国有財産につき賃貸借契約を締結しようとするときには、政府は賃借申出人の使用目的、使用方法、使用期間その他契約締結の否可につき参酌すべき事項の詳細につき申出人の申出理由を明らかにしてこれを審査することを要するとともに、官庁機構のように膨大な組織をなしこれを構成する職員の交代の頻繁な事業体においては、申出の内容を正確に把握保持して審査の対象となし、その結果を正確確実に相手方に伝達するためには、当該担当職員の主観的な記憶、理解、言語等だけに頼ることはできないのであつて、その当然の結果として文書が重視せられ、賃借の申出は申出理由を詳細に具備した文書を以てなされこれに対する諾否の意思表示も文書によつてなされることが原則となるのであつて、現に控訴人が前記幼年学校跡の物件を賃借した場合もこの方式によつていたものであり、西山工廠跡の物件の賃貸借の場合も右の例外をなすものではない。本件において控訴人が西山工廠跡の物件については賃借申出をなさず申請書も提出しなかつたことは原審証人清水英二、同山内良種の各証言によつて明らかであり、本件において証拠上認められる前掲事情も、双方が官庁契約における右のような一般取扱に反してまで西山工廠跡の物件つき文書によらず口頭の賃貸借契約をなすを相当とするような特段の事情に該当するものとは認め難い。殊に当時においては控訴人が幼年学校跡の土地建物につき使用認可の申出をした当時より年月を経過し、当初の目的である名古屋市方面に歯科大学を開設するということは控訴人の主観的意図は別として客観的には既に確実性を欠いていたこと前記のとおりであるから、仮に西山工廠跡を使用するとしてもその理由及び審査の内容は控訴人が当初幼年学校跡の使用認可の申出をした当時と同一とはいえない筈であり、もし西山工廠跡を中部短期大学及び東春高等学校のために使用させるとすれば、その点については幼年学校跡の物件についてもまだ東海財務局には使用目的変更の申出をしてなかつたのであるから、改めて使用物件の範囲その他につき審査を行う必要もあつたのであつて、たとえいかに東海財務局が西山工廠跡の賃貸につき好意的態度を保持していたとしても、昭和二十五年四月十五日当時においては賃貸借契約の意思決定をなすに必要な資料はまだ不足で、そのままでは書面によるにせよ口頭によるにせよ東海財務局としては賃貸借契約はできなかつたものということができる。当時東海財務局が西山工廠跡の土地建物を賃貸しなければ控訴人から幼年学校跡の明渡を受けることが法律上不可能であつたというような事情の認められないことは前示のとおりであり、その他当時東海財務局が必要な審査を省略してまで直ちに口頭による賃貸借契約をしなければならないような緊急の必要があつた事情は証拠上認め難い。もし真に緊急やむを得ない事情から口頭による契約の締結をしなければならなかつたとすれば、前記のような官庁契約の特質上契約締結後遅滞なく書面その他による手続の追完が行われる筈であるのに、本件においてはかような追完の事実も全く認しられないのである。控訴人代表者清水精一は原審の尋問において「当時吉橋はどうしても警察学校に幼年学校跡を使わせなければならぬからここを明渡してくれ、そのかわり行先に西山工廠跡をかすからと言つた」旨供述しており、一方原審証人吉橋鐸美は、「控訴人が西山工廠跡をもし希望するなら調査してみて貸付条件にかなつているならば考慮してもよいと話した」「控訴人に対し西山工廠跡を無条件で貸してやると明言したことはない」旨供述している。当時関係者の間に正確にはどのような言葉を以て折衝がなされたかは必ずしも明らかではないけれども、双方の間にまだ感情の対立がなく、しかる幼年学校跡の返還が急がれていた当時の状況では、東海財務局側において右清水精一の供述したところに近い表現を用いたことは察するに難くないと同時に、その意味を正確に表現すれば右証人吉橋鐸美の供述したところに近いものになつた筈というべきである。原審における控訴人代表者清水精一の右供述及び前示(二)に挙げた各具体的事実は、目的物件が本件のような広大な土地建物でなく、かつそれが大きな組織体でない私人間で行われる契約の場合ならば、口頭による賃貸借の成立を推断させる有力な資料となるけれども、本件の場合は以上のような事情からこれと趣を異にすることになる。これらの諸点を参酌した上で本件各証拠を見るときは、前示乙第四号証の但書の記載、乙第十三号証、乙第二十三号証、原審証人清水英二の証言により真正に成立したものと認める乙第六号証の一ないし五、原審及び当審証人清水英二の証言及び原審における控訴人代表者清水精一尋問の結果によつても、さきに説示したように東海財務局が賃貸借につき控訴人に対し極めて好意的であつたということ以上に、同局と控訴人との間にその主張のような口頭による西山工廠跡物件の賃貸借契約があつたものとは認め難い。

(四)  右のように、控訴人の主張する昭和二十五年四月十五日当時には西山工廠跡の土地建物について口頭による賃貸借契約を認めることを得ず、原審証人栗林四郎、同岡田[禾象]、同吉橋鐸美、同清水英二、原審及び当審証人山内良種の各証言及び原審における控訴人代表者清水精一尋問の結果(前掲及び後記採用しない部分を除く。)を総合すれば、その後翌年三月に至るまで立退費用をめぐつて控訴人と東海財務局及び国家地方警察愛知県本部との間に接衝が続けられたが、その間も控訴人において使用認可の申請書その他書面又は口頭による賃借の申出をしなかつたので、控訴人と被控訴人との間には西山工廠跡の土地建物について賃貸借契約の成立することなくして終り、昭和二十六年八月に入つて控訴人が西山工廠跡の使用をしようとしたところ、東海財務局では、事情変更を理由にその賃貸を拒否したことを認めることができる。原審証人片山五郎の証言中東海財務局の公文書には西山工廠跡を貸すことになつていた旨の供述部分は採用できない。当初前記のように西山工廠跡の物件の賃貸に極めて好意的であつた東海財務局がこのように態度を変更するに至つた理由は必ずしも明瞭ではないけれども、ここに至つて結局西山工廠跡の賃貸借はその実現の見込がなくなつたものである。原審における控訴人代表者清水精一の供述中前各認定に反する部分は採用し難い。従つて控訴人が歯科大学開設を断念し中部短期大学及び東春高等学校を廃止して東京に引揚げたことを以て、西山工廠跡の土地建物に関する被控訴人の賃貸借契約上の債務不履行に基因するものということはできない。従つて右賃貸借契約の不履行による損害賠償請求権の一部を自動債権とする控訴人の相殺の抗弁及び残債権につき支払を求める控訴人の反訴請求はいずれも理由がない。

よつて被控訴人の本訴請求を認容し控訴人の反訴請求を棄却した原判決は相当であるから、民事訴訟法第三百八十四条、第九十五条、第八十九条に従い主文のとおり判決する。

(裁判官 川喜多正時 小沢文雄 位野木益雄)

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